数学的な富国強兵論を(半分本気で)討議してみよう。
明治維新後の大日本帝国興隆の一因は義務教育にあるだろう。なかんずく、工科教育への国家的な注力はその後の日本の飛躍に大きく貢献したと思う。
余談だけど。北里柴三郎がノーベル賞を取りそこねた件やビタミンに相当するオリザニンの発見などは有名だが、この時期の日本人、いや明治人の果敢さは誠に驚くべきものがある。*1
岡倉天心が「アジアはひとつ」と芸術的な見得を切るわ、宮崎滔天が欧米列強に対抗するために中国革命に一身を投じるわ、でイマの人口の半分の人数で、当たるを幸い何でもやった感がある。
教育にもその資力をつぎ込んだ、しかも実利実用をだけを目指したわけではない。福沢諭吉が「窮理学」についてそのパワーについて盛んに紹介したように、明治人は実益以外に理学の吸収にも邁進する。
その結実がゼロ戦や酸素魚雷など独自の技術となったわけだ。空母にしたって当時、それを所有していたのはアメリカとイギリスくらいなのだ。百年満たずして登りつめた先は奈落の底だったのは、悲劇であったけれど。
ネルーがインド国民にメッセージしていたように「イギリス留学に法律家を目指したインド人は、工科・理科に留学させた日本人」をすべからく参照すべきと論じたくらい、他国民から瞠目された存在だったのだ。
戦後、その技術的資産は鉄鋼業、自動車産業や家電産業、電子半導体産業の勃興という戦後の経済的反映に直結したと言える。なんにも持たざる国の生き残りは、広い意味で理学と技術に依存していたといえる。
江戸時代の寺子屋のような庶民の教育意識の高さは明治維新後の衝動力となり富国強兵へと道を開き、戦後転進して富国興産となった。その結果はアジアなどの新興国の勃興に道を開いたと総括できる。
(いきなり総括でゴメン、ここから本論だ)
21世紀の日本が切り開くべき方向は五里霧中にあるかのように思える。全国民は他国の急追に耳目を奪われ、なおかつ過去の遺産に縛られているかのようだ。
新興国は日本のたどった道を忠実のたどっているだけだ。それに対して、日本は欧米列強の道をたどってきたところが、この先には追い求める妥当なモデルがないというので、「五里霧中」となった次第だろう。
これに対して、窮理学の第二の義務化がひとつ有力な道筋であろうと私は信じている。
高等数学による興産的手法が情報化社会には山ほどあるのではなかろうか。
IT産業はそのひとつの実例であろう。情報を集約制御することで経済的価値を生みだすという意味では確かによき範例である。
実のところ数学は社会運営の至る所で活躍はしている。製品設計、建築構造計算、鉄道運行、高炉管理、CTやMRIなど人体スキャン、インターネット、国勢調査、視聴率調査などなど数えきれない。
それとは別次元での数学の庶民化が、さらなる産業振興の起爆劑になることをここで強調したい。生活の質向上や自身の進路などの定量的判断、不動産など財産の自前による客観的な資産価値向上、住民による政策の意思決定などに数学手法をとりこむことで、無駄がどれほど省け、リスクが低減でき、時間がかからなくなるかを国民的に推進することが望ましい。*2
経営者や政策遂行者もそうだ。高度な数学的処理に基づく迅速かつ的確な選択が課題がたくさんある(そうでないものもあるが)プラトンの共和国でも為政者は幾何学を習得すべきとしたそのココロは論理的推論力にあるのだろう。
例えば、仕入れの無駄がある。これをどう減らすかは少量仕入や予約制を用いていくのがいいだろう。予約制と気ままなショッパーを組み合わせて利潤を最大化するのは、数学上の問題だろう。これを小売で実践するにはどうしたらよいか。経営者に数学的センスがあれば、確率モデルを組み立てさせるに違いない。
無理・無駄・ムラをなくすのが和の文化であるなら、そうした定量的な分析を行いさえすれば、確実に低減できるのだ。何も高度な専門分野に閉じられたケースではないはずだ。
これらを速やかに処理できるような仕組みを社会の共通インフラや人びとの能力してしまえば、どれほどの健全な国家が出来上がるだろうか。
誰にでもアクセス可能な「高等和算」を上位意思決定者は取り入れるべきじゃないだろうか。これが「モッタイない」精神を実践するひとつの道筋であり、日本が一大数理力による万物統治を開始する根拠である。