数学的な思考についての図象学的なメモ

 ある無文字社会の模樣をみて、いろいろと考えた。この図の意味を、ではない。その用途と生成の状況を数学的あるいはアルゴリズム的なパターン生成と比較して思いを馳せてみた。

 この抽象的なパターンはペルーのシピポ・コニボ族の呪術師の治療儀式での音楽表記の一種だ。
 社会人類学者のインゴルトの報ずるところでは「聴取する眼に対して現れる声の感覚的形態」がこうした模樣として形象化される。
 五線譜とお玉杓子の一民族版といってもいいであろう。
でも、数理的理論の図像化を試みている者には、その一種にしか見えないであろう。それも其のはずで、シピポ・コニボ族は分割とシンメトリーの原理を繰り返して生成しているだそうだ。
 しかし、シピポ・コニボ族は音楽を記録している。それに対して数学者は代数的構造の出現パターンを見たりするのだ。

 ここで思い合わされるのはウィトゲンシュタインの断片の一節だろう。
ある部族のシャーマンがその小屋に厳密な規則に従って生み出した記号が、西洋数学と同じパターンを再現した時に、そのシャーマンは数学的思考を行ったといえるであろうか?

 同じ結果にまったく異なる観念形態から到達することがある。その場合、その人間は同じ思考を行ったのであろうか?
 ウィトゲンシュタインのシャーマンは数学的思考を実施したのであろうか?

 そんな思考実験をまざまざと見せつけてくれる模樣である。
そうしておいて、ハンソンの理論負荷性はそれを観測者側から論じたものであることも付言しておこう。

 では、現代数学者たちの営々と生み出す厳密な規則に従った記号のシリーズは別様の解釈を許すであろうか?解釈の一意性は成り立つのだろうか?...そんな疑問も湧き出る。
 もはや単純なプラトニストとして数学の普遍性を信じるわけにはいかない、ということを示唆しているようだ。
 「神は幾何学する」というピュタゴラス的な神秘主義も不壊ではなくなろう。


【参考文献】

ラインズ 線の文化史

ラインズ 線の文化史

 
 このティム・インゴルトの著書で扱われるのは文字や記譜法だけではない。人間の文化の総体が線の視点で分解される。そうすると異なる視界が開けるだ。


クレーART BOXー線と色彩ー

クレーART BOXー線と色彩ー

 クレーの芸術論も示唆的だったりする。R荘の画家も線の意味の解体を行った。プリミティブなレベルで線を扱うと近代人の空間認識が相対化される。