言語とその記述のバウンダリについての憶測

 マッカロー・ピッツの定理というものがあり、それは神経回路網は論理回路としても作動するということと意味するらしい。これを拡張するなら、言語とはデジタルコンピュータにより完全に模倣されえるもの、つまり、言語とデジタル信号は等価であることになる。
 言語化できるものはコンピュータで扱えると表現してもいいし、それは誰にも違和感ないだろう。
 なにしろ携帯で話しまくりメールしまくる毎日なんだから。

しかし、ここから導出しようとすることは、ちょっと意味合いが違う。
 三段跳びみたいな書き方だだけど、我慢してお付き合いいただこう。
 ウィトゲンシュタインが「論考」で主張したように言語の境界というものがあり、その内側は「語りうるもの」だ。誰にでも異論なく伝達しうる情報を言語が担えるが、それには限界=バウンダリーがある。
 数学言語も言語に内包されている。だから、電波になろうが、バイナリー信号になろうが携帯で語りうるのだ。相互変換関数やテーブルが数学的に定義されているからだ。

 ところが、数学的言語やそれを包摂する言語一般には限界がある。それは当然だろう。味噌汁の香り、クッションのさわり心地というような感覚すら満足に言語化できない。情緒をヒトに伝えるのは困難だ。また、身体性感覚は言語化できるのはほんの一部だ。これらは限界=バウンダリーの外側にある。
 まして、自然界の事象をすべて「言語化」できるわけではない。言語の外側の事象がありうる。自然界はほとんどの事象が語り得ないと想定してよいであろう。
 ここから飛躍的な結論となるのであります。

 よって、自然科学は自然界の理解できる一部=言語化できる部分だけを表現しているということになる。圧倒的な大多数の事象は言語化の外側にある。
 それ故に、「世界の究極理論」とかいうものは根拠なき理論ということになるし、自然界が素粒子から構成されるというのも部分的な真実でしかない、ということになるではないか。言語化できる事象が哀れなほど少ないのだから。
 つまり、素粒子論とか宇宙論とかが世界の起源とか根源とかを云々するのはスペキュレーションでしかない。同じことを語る宗教との違いがあるとすれば、言語体系の差だと。



新書らしからぬ本格的なウィトゲンシュタインの言語論とその探求。ウィトゲンシュタインの宗教的資質が論理実証主義と衝突して後期ウィトゲンシュタインになったりしたのかな。

ダランベールの夢―他四篇 (岩波文庫 青 624-2)

ダランベールの夢―他四篇 (岩波文庫 青 624-2)

究極理論よりは理神論者の夢のほうが「神」に不可知な事象を委ねた分、まともなのかもしれない。