ゼロについて、それが数学的に特異な数であるのは、いうまでもない。特異点はゼロでの特性だ。ゼロ割(ゼロで除算)の不可解さそのものでもある。
特異点のイメージを複素関数Exp[Epx[1/z]]で示そう。 zは複素数だ。
この関数のゼロ点付近の偏角の変化の等高線図の乱構造が特異点の典型であろう。
ゼロ点はかくのごとき扱いにくさと不確定さを有しているといえる。
厄介なことに、なにかの起源に、ゼロがある。宇宙の起源とか、素粒子の起源、生物の始まりとか、DNAの始まり、種の起源などなど、自然科学の問題がある。自然科学以外でも始まりの識別はおおくの議論を呼ぶ。QEDの発散と繰り込み理論やインフレーション宇宙論は不可解さへの挑戦そのものだろう。
微積分の始まりや数字の起源など以外に国家の起源や神話の起源自意識の始まりなどなど。これらの起源問題の難しさや不確定さはゼロの特性にあるのではないだろうか?
そう、その起源に関する情報や知識がゼロに近いのだ。まるで、起源問題の回答をゼロで除算しているみたいだ。
空集合もゼロとあわせて語るべきだろう。空集合はなにも含まない集合のことだ。
空集合はゼロに比較すると無視されているかもしれない。ゼロは何かにつけて関心を呼ぶが、空集合は日陰の存在だ。
かつて、マーチン・ガードナーは「無」についての名エッセイで空集合を自在に語った。フレーゲとラッセルにより整数構成の始原に「空集合」が召喚されたとガードナーは賞賛している。そして、コンウェイのより洗練された数の構成ルールを紹介してくれた。もちろん空集合が初めにありきなのだ。
クヌースにより数学小説が書かれることになる。『超現実数』だ。空集合としてはようやく晴れの日の舞台に立てたのだ。
ゼロの起源であるが、ゼロという起源の特性を示す概念の始まりは、それ自体、とても謎めいている。
もちろん、インド人の空想的かつ超越的思考力が、人類にもたらしたのは確かだろう。優れた思惟能力の持ち主ギリシア人には思いもよらなかったのだ。エレアのパルメニデスは「無」はないので、有だけを思考する存在論を打ち立てた。
インド人は違う。
ゼロ(zero)というのは語源的に「シューニャ」、すなわちサンスクリット語の「空」にたどりつける。 立川武蔵によれば「シューニャ」とは「あるものを欠いているもの」つまり「中味のからっぽのもの」だ。こうした否定の行きつく先が「無」である。
古代インド哲学は無についての用語法が精緻なものであったようだ。
未生無、己滅無、睾黄無、更互無、不会無
の五つの無をわけている。
未生無は心の中にだけある無、己滅無は滅亡後の無と吉村公宏は説明していた。
異様で抽象方向にとんがった思考力だけが無を言語化し、思考と操作の対象にできると思う。
そして、おそるべきことに、インド仏教の「空性」の由来につながるのだ。
ゼロと空性が同根であるというのは、自分の夢幻的信念だ。
いずれにせよ、「インド記数法なくしてはこんにちの科学文明はもたらされえなかったと考える方が、むしろ、適切であるかも知れない」と数学者の吉田洋一は適切な評価をくだしている。
空や無については、中国人も一言も二言も言うべきことがあった。老子と荘子だ。老子は無為自然や無為之治を奨める。荘子は存在と無は相対的とする万物斉同を理想とした。それは別途語ることもあろう。
話は時代を飛ぶ。
ゼロが西洋数学に取り込まれたのがルネサンス期だ。それ以降、西洋数学は負の数、虚数などを数を拡張する。
西洋文明は非在の数をうみだし近代数学を創造したといえる。非在の数はゼロから生成されたものと無理数のような代数的拡大から生み出されたものがある。
ここで注目したいのは確率である。確率は17世紀フランスでカード賭博から生じたのは特筆すべきことがらだ。人類は将来を確率で占うようになったのは当然だろう。
そして、確率値はゼロと1の間にある。無と有の間にあるのだ。
確率値がゼロは起こらないことではない。とくにコルモゴロフの公理を前提とするならば、確率ゼロでも起きうるのだ。
例えば、数直線上では整数値をとる確率はゼロになるのだ。無理数がほとんどすべてだからだ。
そうなるとゼロ概念は修正されるのだろうか?
絶対無がゼロではなかったのではないか?
深い問いで、ザックリした答えの持ち合わせすらない。
それでも、「わたし」や「あなた」が今ここにいる確率は宇宙的にはゼロなのだが、コルモゴロフ公理は、われらの存在を確率的に保証していると主張するのは、自分だけであろう。
【参考文献】
確率ゼロの議論は下の本を見習った。
ゼロについては、下記の2書がいい。吉田洋一の本はロングセラーだ。
このシリーズは素人数学好きの宝ものではないだろうか。
数についての純粋小説はこれだけであろう。作者はクヌースであります。
空についてのインド人の思惟を辿る思想史