『西洋の没落』における数学史の取り扱い

 ドイツ人オスヴァルト・シュペングラーによって書かれた歴史書『西洋の没落』は1918年に第一巻が出版され、西洋(独仏英)にセンセーションを起こした。
 第一次世界大戦後の疲弊し自信を喪失したヨーロッパ知識人に今更ながら、衝撃を与えたわけだ。
ヨーロッパはこのままユーラシア大陸の変哲もない半島になりはてる。アメリカやロシアの登場で二流の地位に追い落とされる。それが当時の西欧諸国のなかで渦巻いたのだ。
 日本でも村松正俊訳で出版されているのはご承知おきのことであろう。

 ここで取り上げるのはその没落史観ではない。その第一巻の劈頭「第一章 数の意味について」の簡単な紹介と自分の評価が首題なのであります。
 世界史の流れのなかで冒頭から数学史を持ち出している有名な歴史書はシュペングラーのこの本だけであろう。プロの歴史家たちからはギムナジウムの校長がやりそうな衒学臭を槍玉にあげられることが多い。
 例外は佐々木力くらいであろうか。ただし、この人も数学史家であるので歴史家とはいえないか。

 なんのためにこの分厚い歴史書に数学の流れを開陳することにしたのであろうか?
 彼の時代予言の根拠は20世紀の西洋列強は古典期のギリシア・ローマと同じ歴史的軌跡をたどるという、強烈な思い込みがあった。それが故に、古典期ギリシアからアレキサンダー大王後のヘレニズム、そしてローマ帝国への推移における「数学」の変容をもって、後代の西洋列強諸国の「数学」が同様の変容を示していることを、これまた強烈な思い入れで検証してみせた。
ローマ帝国」というのはシュペングラーの世界では「アメリカ合衆国」に比定される。ギリシア都市国家はもちろん「ヨーロッパ」なのだ。

 そうしておいて、数学の流れが文明の興亡を物語るというのが、シュペングラーの独創的な史観なのだ(と自分は思う)
 
  内容の雰囲気を察してもらうために引用しておこう。

「数学」というものはない。あるものは多くの数学だけである

例えば、数もそれぞれ別の文化圏では別の型というのがあるとする。
これは記数法の違いという瑣末なことではなく、その文化における時間や空間の相のもとでの数の位相が異なる。

数それ自体というものは存在しない。多くの数世界はある。
インドの型、アラビヤの型、ギリシャ・ローマの型、西洋の型がある

成熱したギリシャ。ローマ思想は、その世界感情のすべてにしたがつて、数学をただ体躯のある物体の間の大いさの関係、割合の関係、それから形態の関係に関する理論だとみなした。

「同時に一片の詩情を持たない数学者は、決してより完全な数学者ではないだろう」と老ヴァイエルシュトラースがいった。

 この引用でもって、シュペングラーは、数学者たちもその時代に属している。数学の建設は音楽や建築物と同時並行的な時代精神の技だと主張している。

ゴート式大教会堂とドリス式神院とは、石に成った数学である。

ピュタゴラス学派による無理数の発見を外部に漏らした人物が死んだ事実からシュペングラーは飛躍する。

最初に無理数の考察を公けにしたものは難破で死んだ。それは具体的な・感覚的な、現在的なものが崩壊することを恐れる深い形而上学的な怖れである

 ついでながら、この歴史家はディオファントスの研究を「マギ的」な数学と呼び。ギリシアの数学というよりアラビア数学に属するものと評価したのは、随分と思い切った判断だ。中東由来の数学はギリシア数学より格が低いというわけだ。
 18世紀以降の整数論の発展はディオファントスの轢いたレールにのっているという理解はシュペングラーにはなかったわけだ(ヴェイユの『数論』はそういう信念で書かれている)
 その後の数論の発展はシュペングラーの視野の外にあるのがここからもわかる。

 シュペングラーは20世紀初頭の数学が衰退の一途をたどる兆候を指摘して第一章を閉じる。

今日の仕事は活動しつつある大きな創造ではなく、保存、完成、醇化、選択という巧みな小仕事である。それはまた後期ヘレニズムのアレキサンドレイヤ数学の特色でもあったのである。

 数学の創造性の変貌や枯渇でもって西洋の没落を感知しようというのは、なんとも勇ましい。ただ、100年後の2017年の数学世界が「後期ヘレニズム」の有り様に似ていると、そのうち誰かが騒ぎ出す可能性が無いとは言えない。



【参考文献】
 この浩瀚な書籍はいまでは中公バックスに収録されているのだから、いまだに地道に販売されている。最近のグローバル・ヒストリーの走りでもある。
 というよりベストセラーの一角にのし上がっている。最近の一連のEUのゴタゴタ騒ぎとグタグタな連帯感がその原因だろうけど。

西洋の没落 I (中公クラシックス)

西洋の没落 I (中公クラシックス)