奇数と数寄

 日本特有の美のあり方で「数寄」の美というものがある。「好=すき」のあて字だとのことだが、数寄は奇数の美であると柳宗悦がいうように、素数に秘められた美というものを考えてもイイでしょうね。
 以下、牽強付会の数理的な美についての走り書きであります。

 「2」を例外として、素数は奇数であり、数寄の対象となるでありましょう。
 数寄の美とは、伝統的には「足らざるに足るを知る」そして、いいかえると「足らざるを足ると知る」ことだというように、欠けているものの美だというのです。

 けれども、素数はどうも欠けているわけではないようです。
 何かが欠けている存在ではない。
 むしろ、あらゆる数をうみだす素という言葉からできたのでしょうから、充ち満ちた根源的存在です。どちらかというと独立した独自のイコンというように自然数愛好家や数理系好事家たちは感じていることでしょう。

 数寄の別様な解釈には、「破形の美」というものがあります。破形はおのがじし唯一無二の有り様となります。これは素数に当てはまりすぎることです。
 きっと素数のことです。
 マーチン・ガードナーの定理によれば、つまらぬ数はない。どれも独自で唯一無二であるというのがあります。
 証明はこうです。
 つまらぬ数があるとせよ、その集合を考える。その集合には下限がある。よって、最低のつまらぬ数がある。それはつまらぬ数ではない。なぜなら、最小であるということで特異であるためである。ここで矛盾が生じたので、つまらぬ数などは存在しない。
 ましてや、素数はどれ1つとしてつまらぬ数どころではない。一つ一つが自存し不壊であり不可侵であり、不可欠なものであります。

 加藤和也先生の「素数の歌」もそれを例証しているのでは?

 破形でありどれもかたやぶりな原型的な存在こそ素数であるような気がします。
 素数の集合は考えてみるのもいいのですが、どうも独立無二のものを無理やり寄集めた感があります。

 奇数の数奇性という漢字のあそびからの連想をほしいままにしてもよいでありましょう。
 端数をもつがゆえに奇数は閉じたものとならない。不均斉でアンバランス、非対称な性格が奇数にはあります。
 ところがそれを日本人は好む。
 奇数を奇瑞と同じものと観じるのであります。奇を「珍しいこと。不思議なこと。」とするは漢字民族の共通点ですが、さらに「めでたい」とするのがこの国の数字感覚なのです。お隣の中国人はどうも違う。
 これなども数寄の感覚に相通じるものがあります。

 ここで論理的というより風雅で風変わりなまとめをしておきます・
円と並んで奇数ならぬ素数にも日本的な親和感覚や美の情緒がほとばしるのであります。
 
【参考文献】

茶と美 (講談社学術文庫)

茶と美 (講談社学術文庫)

 柳の「奇数の美」を含む

数学の文化人類学 (1980年)

数学の文化人類学 (1980年)