グローバル・サプライチェーンの陥穽

 円高、節電、国内消費の低迷。日本のメーカーには度重なるダメージが襲いかかっている。
 そのため、国内企業の生産現場を海外にシフトする動きが盛んだ。
日本には本社機構だけを残し、企画開発機能を海外シフトするところも出てこよう。

 そこで導入されるのがグローバル・サプライチェーンなのだが、これには隠れた陥穽があると私は考える。
 中長期的な課題を二点、指摘しておこう。

1)リスク要因の増大
 資材調達が長大化すると物流ネットワークにおけるリスク要因が増大する。リカバリープランは見えるものにしかたてられない。複合化して解決策がないケースもあろう。
 ここで強調したいのは、不測の事態は避けられない。それを避けるために膨大なバックアップを保持すれば、資本回転率を下げて経営の足かせになるのは自明だろう。リスクは加算されるだけなのだ。
カントリーリスク、平和と安定だけが国の見かけではない。とくに慣習の違いからくる思わぬ火種がこの一言に含まれる。例えばイスラムの食習慣を我らはどれだけ理解しているだろう?
それに、多民族国家は複雑な利害関係を秘めているものである。
 天災はどこにでも付き物であり日本の特産ではない。
注意したいのは輸送経路だ。コスト原則だけで世界中から資材を寄せ集めるとリスク分散どころではない。リスク拡散を招来するのだ。

 繰り返すが、不測の事態は不可避である。それ故に、どうしても人為による応急処置が必要になるのだ。
 1997年のアイシン精機の火災が良い例となろう。在庫を持たないカンバン方式トヨタにとってこの火災は大きなダメージだった。しかし、失敗百選とはなったものの、急速な生産回復は世界を驚かせたことの方が重要であろう。
 これが可能だったのは、協力企業がある程度地理的に近接していたからだ
 技術者と見本を素早く持ち寄り生産シフトを迅速に行うことができたのは、地理的な生産現場の稠密性があったおかげだろう。
 ただし、今次のような巨大地震にはこの理屈が通らないのは確認しておく。


2)企業のアイデンティティ喪失
 本社機能や開発拠点が海外シフトすることで、さて、自分たちの独自性と社会におけるポジションが維持できるだろうか。よくコンサルが指導する生産開発現場を市場の伸びている国にシフトしろ!
と彼らは口をそろえて唱導する。顧客の声を肌身に感じることになるのだというのが主な理由だ。
市場に受け入られる製品づくりという掛け声は正しいが、それだけでは何ごとも決定できない。改良はあるが創造は停滞する。よって 一時的にせよ、開発現場にはやがて混迷が到来するであろう。
 ドラッカーのいう経営の文化的源泉が断ち切られるせいであろうか。

 次の彼の指摘を思い起こして欲しい。

日本の伝統を貫く「知覚力」は経済や経営にもそのパワーが及んでいて、力の源になっている

 これを裏付ける2つの歴史的事象があった。
鎖国前の安土桃山時代から江戸初期にかけて東南アジアに日本人町が形成された。16世紀末から17世紀初頭だ。しかし、鎖国とともに日本人町は消失した。現地人に溶け込んでしまったのだ。
 同様に、戦前の日系移民はアメリカにおいて日本人街を一時形成した。今や、アメリカ本土にはその面影しか残っていない。やはり現地に吸い込まれてアイデンティティを無くしていったのだ。世界中に中華街を持つ中国人などとは全く違うのだ。
 柔軟に何でも吸収する日本的特質が故に、現地で自己を見失ってゆく、それが日本人というものなのであろう。

 これを乗り越える企業はコカコーラやマクドナルド化を覚悟しなければならない。誰もが認知する均質なサービスと商品を大量に供給する、そうした企業である。
これらのグローバル企業は初めからどこででも資材を調達できるストックも可能な製品を扱っていることにも留意したい。メニューではラーメン屋的で仕入れでは水道屋的なのだ。


 いずれにせよ、コスト要因で海外シフトをする企業は自らの出自をよく鑑みた上で、長期ビジョンを描き、自らの未来像を定めてから海外に雄飛するべきなのであろう。

【参考】ドラッカーは総意を傾けて日本の発展の原因を探求した代表作の一つ

断絶の時代―いま起こっていることの本質

断絶の時代―いま起こっていることの本質