他人指向から自他同化指向へと向かう社会的自我

リースマン『孤独な群集』から読みほどく[現代]


 時代の転換期には、変化のエッジが鋭く出現する。というのも観察者が古い通念に足場をおくからであり、さらには、古い通念の持ち主にとっては、新興する事象と古い事象とが鮮やかな対比となって現れるからであろう。
 リースマンの生きた1960年代には「他人指向型」はかなり一般的な社会的となっていたようだ。

「他人指向と名づける性格類型は、きわめて近年になって、大都市の上層中産階級のあいだに出現したもののように恩われる」

 その当時と比較すると、現代人には「伝統指向」や「内部指向」といったタイプはほとんど見かけることがない。他人との関係は、ますます、他人との「きずな」や「ひと目」や「クチコミ」を重視する方向に社会的情勢が突き進んだようである。そうした人びとだけの世界は果たして健全なのだろうか?
 それを後押ししたのはマスメディアよりも、インターネット/携帯というソーシャルメディアの進化と浸透によるものであろう。
 現時点において、先進国の社会的自我は、周囲の多数の自我と交わりながら社会的通念や感想をいだくようになっている。さらに身体の物理的所在をこえたコミュニティに影響を受け与えつつ、社会的自我を形づくるかのうように見える。
 リースマンの指摘する「手工芸から操作的技能へ」の労働の変化は今日にも通用するかにみえる。たしかに現代の労働環境は他人指向を規定付ける。丹念に身体動作や所作を通じて、師から伝授する技能やアートはもはやどこにもなく、キーボードかマウスでことが片付くし、そうしたモノが作られる。キーボード操作というVDT作業に身体動作は狭まった感がある。だが、ネットと液晶画面のなかで何かができてお仕舞いになる行為は、「矮小」である。リアルに踏み出さないかぎり、その仮想の行為自体が、人を矮小化する圧力になるであろう。

 リースマンから、伝統指向の人物像を次のように指摘されると昔昔の人物描写を聞く心地がする。

「伝統指向の人間は、じぷんを個性化された個人としてみることがほとんどない。かれは、個人的な人生目標に関して、じぶんじしんの運命をじぶんでつくることができる、などとは考えないし、また、子どもたちの運命が、家族集団の運命とまったくべつのものになるかもしれない、といったようなことも考えない。」

 くり返すけれど、伝統指向タイプの個人は、周囲にほとんどいない。マスメディアでたまに報じられる伝統芸能の芸人や職人くらいのものだろうか。だが、そうした芸人・職人とて伝統指向の基質がいく分残るというのに違いない。メディアに出演すること自体が他人指向型の証拠かもしれないのである。



 現代人は生まれながらに情報の奔流に浸される。それは一種の胎教・調教に似ている。誰に教わるでもなく、何を見習うべきか、何を退け何を選択するべきかを早くから、かつ、見知らぬ遠くの他人から刷り込まれてきている。消費やモードの良し悪しには誰も疑問を抱くことはできない。リースマンの指摘するような「成功」モデルだけではなく、「選択」モデルをうむを言わさず叩き込まれていいる。

「他人指向的な人間をうみ出した諸条件というのは、たんにアメリカにのみあるのでなく、先進的工業国の都市の人間たちのあいだに一様にひろがってゆきつつあるのだ、とも考える。」
「他人指向」が登場した社会的変化については、マスコミから常時流れてくる膨大なシンボルに対応するため「多くの人びとは、成功にいたる方法、ないしは成功および婚姻や人間的な'適応のための、より「ひらけた」行動を身につける方法を変えてゆかなければならない。」

 他人指向型は近代的な組織にあって身を処するうえで有利であると指摘される。組織に適応する性格類型であるから、ますます増殖しだす。今や、まわりはそうした人びとに満ち溢れている。

「社会にとっての基本的な物理的設備がすでに出来上ったと考えられるとき、あるいはその建設がすでに経営計画によって手順の決ったものとなってしまっている場合、社会がそうした段階にさしかかったときには人間的環境の中に与えられている複雑微妙な機会をかぎとることの出来る他人指向型の人聞が社会の上層部にうかびあがってくるのである」

 そして、きわめつけがこの指摘であろう。他人指向型ヒューマンには、もはや、他人しか眼中にないかのようだ。というより大多数の人の振る舞いのパターンが先に存在して、他人指向型ヒューマンはそれに追従することを是とするようになっているような感がある。

「内部指向型の人間が仕事熱心であったのと比べると、かれはいわば、人間熱心ということにでもなろうか。このようなわけで他人指向型の人間にとっては仕事も楽しみも共に人間と関係した活動として考えられる。」


 消費活動も一役買っている。我らは子供の頃から、流行に対する反応に関して訓練を受ける。それは同輩であり、ちまたの噂であり、各種のメディアからなのであるとするこのリースマンの指摘は今でも正しい! 趣味の良さを演技しなければ評価されないのである。その人の属するコミュニティで自己顕示欲を満たす衝動が支配的になるだろう。

「消費者嗜好の交換によって成り立っているような社会では、プライバシーを放棄するか、あるいは依然として、守りつづけるかということは、もっぱら本人次第だということになる。それは、自由主義的な神掌者の考えている神の概念と似たようなものだ。仲間集団という名の陪審員の前では、自首して出たからといって情状酌量してもらうことはできないのである。
このようにして趣味の社会化は完成してゆくのだが、その背後に働いている力は、より社会化された演技をも促進する」


 従来のタイプについてのリースマンの見解をまとめておこう。

「伝統指向型の人間は、かれの所属する文化の衝撃をまとまったひとつの単位として感じている。しかし、その衝撃は、かれが日常に接触している特定のわずかの数の人びとをつうじてあたえられるからかなり弱められているとみてよい」

「伝統指向型の社会は、その社会のさまざまな価値の相対的な統一をはかる手段のひとつとして口頭伝承だの、神話だの、伝説だのを使用した社会であった。これらの形式にはあいまいさが不在であった。」

「内部指向の人聞は、幼いころから両親の手で心理的ジャイロスコープをうえつけられており、成人後も両親にかわるべき権威からの信号を受信することができる。」


 一方、他人指向型の世界には「心理的ジャイロスコープ」など存在しない。群れが動く方向に自らを同調させてゆくのだ。他者の視線はPVでありダウンロード数であり、検索回数なのだろう。他人指向には集団的他者への指向が内在しているのだ。ベストセラー、視聴率に代わり、より仔細で実時間に近いところで、「大多数」への数の論理が支配しているかのようだ。

「両親という小さな世界からよりも、はるかにひろい世界からの信号に反応することを学習する。そこでは家族というものは、もはや、たんに彼の所属するきめのこまかい単位なのではなく、むしろ、より広。い社会的環境の一部であるにすぎない。」

 こうしてリースマンの議論をたどり直してみるとイマの世の中、他人指向型しかいないという疑念は確信になっていく。まして、今日のそれはそのまま60年代の他人指向型であるとは思えない。
 現代人はある同質集団を見つけたら、ひたすらそこに自己の精神的拠り所をおこうとする、そうした自他同化指向になっているとするのが、わたしの仮説である。
 他者集団=コミュニティが主であり、そのPV数やアクセスや賛同の声がすべてなのである。自分の価値観はその群集の声(コメント、twitter、VOC)に支配される。

 これはリサーチしたわけでも同様な意見の人がいるというわけでもなく、ほんの思いつきの説にすぎない。つまりは、ネットの中での「矮小」な見解に他ならないのである。


孤独な群衆

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