八木アンテナの逸話その他

 第二次大戦が科学者の総力戦でもあったことは十分に知れ渡ってます。なかには現代人からすると夢ものがたりのような研究もありました。
 日本での典型が「磁電管」をもとにした攻撃兵器、つまり「殺人光線」の研究でしょう。朝永振一郎に代表される理研の科学者技術者が動員されて静岡県島田市の海軍研究所で、通称「殺人光線研究」をしていたのです。目標はB29のエンジンの破壊です。彼らは総力をあげて試作品を作りました。実現したのは、2m先のウサギを殺すことでした。
島田実験場のことを『電子立国日本を育てた男 八木秀次と独創者たち』より、引用します。

 島田実験所の存在は最高度の機密とされ、一般にはまったく知られず、軍の内部でも知る者は一部しかいなかった。現在でも、かつてそんな研究所があったことを知る人は少ない。
 だが島田実験所は、伊藤庸二、渡辺寧、水間正一郎トリオの構想によって、当時の物理系の優秀な研究者をごっそりと集めたのである。そのピカ一が、理研仁科研究室から東京文理科大学教授に転じていた朝永振一郎だった。


ちなみに戦後、朝永は磁電管の研究で学士院賞を受けています。また、戦後アメリカでは電子レンジの基礎技術となりました。

 これには伏線があって、1930年まではそんな兵器が夢ではないと信じられていたようです。イギリスのマシウスが「殺人光線」を発明したと発表したのが1923年。
 テスラも存命で無電線送電を考案中でした。
 日本でその研究に邁進したとしても笑えないのですが、連合軍はもっとまともな無線の応用を実現したのですね。レーダーです。
 連合軍の兵士をとらえて尋問したところ、レーダのアンテナの名前は「ヤギ」だと答えています。八木アンテナの名前は欧米では知れ渡ってたのです。実際に八木秀次は欧米で特許も取得しているのです(戦時中はロイヤリティ収入は無かったようです)

 1930年までには八木秀次マイクロ波送信や岡部金治郎の陽極分割型マグネトロンなどが生まれていたわけです。だから送受信技術についてはけっして負けていたわけではありません。また、松前重義の無装荷ケーブルの発明もありました。彼は著名な元逓信技官で東海大を建学します。彼も東北帝大出身でした。

 ここまでの話はよく知られていることです。興味を引くのは、日本軍部は攻撃型の兵器開発にとらわれていたことです。レーダーのような受身の兵器よりは攻撃用兵器の開発が先行してしまったわけです。国内にあったせっかくの技術のネタも持ち腐れになったキライがないでもありません。

 別の話ではあるけれど、碧素(ペニシリン)の自主開発はもうちょっとの所だったので、じつに惜しいものがあります。
http://chomon-ryojiro.iza.ne.jp/blog/entry/510928
 長井長義により生まれたヒロポンも日本の科学が生んだ変わり種の遺産であろう。 *1
長井長義は尋常の人物ではない。日本の薬学の開拓者であるだけではない。薬学そのもに多大な貢献をした偉人であろう。その彼が産み出したのがヒロポンエフェドリン)である。いまのことばでは、覚せい剤です。
http://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_03.html

八木と岡部などの東北帝大の活躍はこの本に詳しい。周辺逸話が豊富な読み物である。

図解・わかる電気と電子―具体例から原理を語る (ブルーバックス)

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 この本も重要な事実が多く記載されています。力作ですね。

電子立国日本を育てた男―八木秀次と独創者たち

電子立国日本を育てた男―八木秀次と独創者たち


 中川靖造「海軍技術研究所」は電探(レーダー)開発がテーマです。朝永らはあいにく、登場しない。理学系学徒は攻撃兵器に動員されていたのだろう。磁電管の研究はここにも紹介がある。

海軍技術研究所―エレクトロニクス王国の先駆者たち (光人社NF文庫)

海軍技術研究所―エレクトロニクス王国の先駆者たち (光人社NF文庫)

戦争関係者テーマの一流ノンフィクション作家による日本ペニシリン開発ものがたり

碧素・日本ペニシリン物語 (1978年)

碧素・日本ペニシリン物語 (1978年)

*1:皮肉なことにアメリカではその派生物のメタンフェタミンが若者に大流行で社会問題となっている。