再説:朝鮮古史にみられる倭・日本

 もっとも古い朝鮮の正史『三国史記』の「倭人伝」を読むと不思議な気分にさせられる。

新羅本記」にいきなりある貴族が出てくる。瓢箪を越にぶらさげて日本から帰化した「瓢公」だ。

瓢公を遣わして馬韓に聯せしむ。馬韓王、瓢公を請めて曰く辰弁の二韓は、我が属国なり。比年、職貢を輸さず。
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瓢公は、未だ其の族姓を詳らかにせず。本、倭人にして、初め瓢を以て腰に繋け、海を渡りて来る。故に瓢公と称す。


 つまり、新羅の初期において倭人が現れるのだ。後進国日本がなんで新羅の建国時代に登場するのだろう。
 それだけはでない。
脱解(だっかい)という新羅の第四代の王(在位57―80年)について、もっと不思議なことを語る。

脱解は本、多婆波国の所生なり。其の国、倭国の東北一千里に在り

 この新羅の王は丹波国で生まれたというのである。歴史家の説によれば、多婆波国(たばなこく)は丹波に比定して、まず違いはないという。ホンマかいな!
 丹波、今の京都府日本海側はたしかに、大陸との交流の痕跡はあるとされる。しかし、それははるか後代だったな。

なんと、卑弥呼が出てくる。だがその年代は173年とされる。
 魏志倭人伝の239年は大きくズレる。ナゾい!

倭の女王卑弥乎、使を遣わし来聘す

 つづく記事が興味深い。193年頃に大きな飢饉が倭人を襲ったようだ。それまでは、意気揚々と新羅と争いばかりしていたのが、いきなり食を請うとは。倭国大乱のキッカケかもしれない。

倭人、大いに飢える。来りて食を求むる者千余人なり


 ある時期から、倭国王が登場する。未開国もついに政治力・軍事力をつけたか。それともユルい軍事連合を一人の王のもとに作り出したか。
 半島も三国間の衝突で大きく揺れ動いていた。新羅と敵対する百済高句麗のことだ。

倭国と好を通じ、奈勿王の子、未斯欣(みしきん)を以て質と為す。

 こうしてみると、3−4世紀にあって想像以上に朝鮮と倭国とのやりとりが活発なことが知れる。
自分の半島史観を開陳しておこう。新羅加羅は出雲や丹後地方との交流が深かった。おそらくは日本海交易圏というべきものがあり、それを牛耳る一族があったのではないか。
 古田武彦はこの半島史の記事をかなり正面から取り上げている。(『風土記にいた卑弥呼』参照)
 半島と山陰地方の人びとの行き来は近代以上であった。「倭」とは加羅と出雲・北九州の海洋民族を指すのではなかろうか。『稲の日本史』では倭と古代朝鮮には会話の支障がなかったとしている。
 


 『三国史記』は12世紀に編まれた正史である。おおよそ日本の鎌倉時代史書ができたのだ。
ずいぶんと後代だ。それまでに日本は六国史と大今水増の4鏡があったのにたいして、わが日本より先進国朝鮮がどうしたことだろう?

 それ以前の編年体の記録は官のものしかなったのであろうか。それとも三国の闘争で統一的な歴史の編纂という余裕がなかったのか、意外なことである。