伊藤清の足跡をめぐるメモ なぜ伊藤清は伊藤積分を考えたか?

 戦前から戦中にかけて日本の近代数学は、後進国としては驚異的に発展する。それをわざわざ取り上げて、ブラバキ派のデュドネが同時期のポーランド数学と並べているくらいだ。
 伊藤清の確率微分方程式もその一つだけど、金融工学での応用がさらに功績と重要性と名声を加速した。それ以前はストラトノビッチと並列して、どちらかというとIto積分はオマケみたいに扱われていたのだ。
 しばらくは確率微分方程式の使いみちとしてはブラウン運動が最たるものだった。そのブラウン運動での数学的な定式化は伊藤型かストラトノビッチ型だったというわけだ。
 結果として応用分野の発展からして、伊藤型のほうが普遍性があったということになる。ストラトノビッチより先駆的で、しかも応用範囲が広いのだ。
 ただし、正規分布を前提とした方法だということは記憶しておくべきであろう。栄えある第一回ガウス賞を氏が受賞したのもガウス分布正規分布が縁を結んでいるせいであろうか。

 自分にとっては、伊藤清の業績が孤立したものかどうかが数学史的に興味がある。
 実際、彼の回想録『確率論と私』を読んでも、当時の日本には確率論を専攻している学者はいなかったとあるだけであります。
 そうは言っても思考的連鎖をたどることは出来るのではないか?
その一つが、「統計力学」でありまして、伊藤清は確率論に入る前に統計力学を勉強してそれで確率論を選んだとある。
 注目すべきは理論物理学者伏見康治の『確率論および統計論』に連なる系譜ですね。1942年に初版がでている。伊藤清27歳ころの業績で、彼とは無縁ではなかったはずだろう(上記の回想録には出ていないけど)この本を読むと物理学者が確率論の教科書を物理屋だけでなく理学系のヒトのために書いているんですね。伊藤清いうように当時、数学者で確率論を専門とするヒトがいなかったせいでしょう。

 渡辺慧と伏見康治は、両者とも帝国大学物理学科の俊英だった。お天気博士の藤原咲平の薫陶も受けている。彼らの手記によれば、天候の確率モデルを研究していたこともあったようだ。帝国大学の理学部といっても数物系は兄弟分のようなもので、授業なども共通なものが多かっただろう。
 つまりは、理学部の相互交流のなかで「確率論」が大きなニッチとして存在していたことは、明らかなようだ。重要なのに専門家不在な研究領域である。伊藤清はそこに着眼して、独力で研究を開始したということであろう。
 ここで私的な関心事として言及したいのは、藤原咲平寺田寅彦の門下(寺田の全集の編纂もしている)だったことだ。寺田の俳風物理が思わぬ種をまいたとしてもいいであろう。寺田寅彦の研究には初歩的な統計・確率論の応用がかなり多いのだ。


 もう一つ注意しておきたいのは、角谷静夫のことだ。
 東北帝大出でのちにエール大学教授となった角谷は伊藤清とほぼ同世代でありまして、調和関数とブラウン運動についての業績もある。ポール・エルデシュと論文を書いている。エルデシュ数=1の日本人数学者でありますな。
 彼との関係は調べていないけれど、今のところは二人の研究は共時性があったとでも言っておくべきなのであろう。それから、かなり後年になるが木村資生の研究も近接していたといえる。中立進化説では確率過程論がその基礎となっているからだ。物理学者のファインマンも中立進化説を独立に発見しているので、確率過程論的発想は同時代的なものだったのだろう。


 伊藤清にとっては、角谷とよりはコルモゴロフの影響のほうが強烈であったようだが、それはまあ、そうであろう。

確率論と私

確率論と私