紙の書物が滅びる頃合い

 いまだに電子書籍ビジネスの夜明けがこない。そんな状況下でも「自炊」は次第に定着してきている。
これは、津野梅太郎氏が、さる11月の新聞紙で論評したことであります。
 その上で参考になるのは前田塁氏の論説だった。電子化の流れを総括し、現状を把握するうえで、前田塁氏は『紙の本が亡びるとき』で、「流動化する情報」により突っ込んだ時事評論を出していた。2010年の早い時点でだ。

 大量の書籍裁断によって個人的に紙の書物を滅ぼしつつある身としては、一言申し沿えておきたい。ぶっちゃけ話、ネット上に存在する情報は「切り取られた「部分」」として、無数に複写されて拡散してゆく。*1
 それ故、その「部分」=スニペット(抄録)は個性や他者性をうしない、体感性を欠落させたまま、液晶画面の間を彷徨している。書籍も電子化された途端、そうなる命運にさらされるわけである。

 どんな危機が露呈するかというと前田氏によれば「認知限界」の喪失だということになります。書物を介しての他者性の全体性を吟味することで自分の境界、分限を知るということでしょうか。
書籍がGoogleBooksのように電子的に解体されて、検索で引っかかるスニペットしか読まないということになれば、まあ、そうなるでしょうね。


 自炊とはその点で衝突してないのは明らかでしょう。本の情報を全体として保存しておくのが、自炊なのですから。裁断するという「身の毛のよだつような」体験もともなうのです。
 それにページのばら売りや単純な焚書行為とは一線を画すのですから、それはいい。
 問題は大量の自炊がそれ自体、目的化してしまうことにあるような気がしてます。自分の場合には、買った本を読まずに自炊し、自炊のための読書時間が減少する、即ち、自炊のために本を買うのであります。


 ここで、一句できた。

    裁断に時間取られて、本読めず

 というわけで駄弁を弄せば、裁断して蔵書スペースを確保し、さらに本を買う喜びに浸り、読む時間を先延ばしして電子化に励んでいるという次第。
 本末転倒というわけであります。「他者性」の認識以前のレベルなのであります。


 それはともかく、紙としての書籍は二度の喜びを与えてくれるのです。書籍としてページをめくる喜びと裁断して電子化する喜びです。
情報の担い手として、CDはデジタル化された情報であったので、「即死」していきました。紙として書籍は抵抗力があるので、「衰弱死」するだろというのが自分の見立です。
 なので紙の書籍は、なかなか、持続するのであろうと思う今日この頃であります。

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自炊はカルチャー化したでしょうか?アメリカや韓国はどうなのでしょうか?

前田塁の本書は力作ですが、とくに刮目すべき「知の臨界時計」では書籍に10年の余命を告知しています。

紙の本が亡びるとき?

紙の本が亡びるとき?

*1:大腸菌のプラスミドと思えばいい。だから、ネットでは進化や変化や炎上も加速するのだ