人間は考える葦である...

 パスカルの『パンセ』の347節にある、有名なこの断章を考えてみる。

 前田陽一の訳ではこうなる。

 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。
 彼を押しつぶすために、全宇宙が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いであろう。なぜならば、彼は自分が死ぬこと、宇宙に対する自分の優勢を知っているからである。宇宙はなにも知らない。

 『パンセ』は、明治時代から日本人の心の要求のある部分に響いていたらしく、前田陽一が留学したフランスのパスカル研究の権威が、翻訳書・研究書が30余もあると知り、驚いたそうだ。
 なぜか日本に早々と受容されたのかを、347節だけからのぞき見てみたい。

 西洋思想は、一般に人間の自然への支配性のみを強調している。キリスト教の伝統である。神は自分に似せて人間を創造したのだ。その神は御子を送ってヒトの救済も約束している。人間は宇宙の寵児である。この断章にもそれは含まれている。
 しかし、人間の弱さが冒頭に置かれているので、他の西洋思想とはだいぶ印象が違う。
日本のような天災の多い国土では、人間の尊厳よりは、その自然観の奥底で宇宙への畏怖が先に立っていたと思う。
 阪神大震災や今回の東日本大震災は、そうした感覚をより深めた。防災設計をほどこしたはずの最先端の原発ですら、猛威のまえにあっけなくその安全性が吹き飛んだ。
 太平洋プレートのかすかな身震いでしかなかったのに、だ。
「一滴の水」という洪水、放射能を含んだ「蒸気」は人びとを押しつぶすのに「十分」であった。人間やその建造物などモロイものだ。建造物を破壊した理由で、この津波の規模は千年に一度とかいってみても始まらない。所詮、壊れるものだ。
 しかるに、人びとはそうした自然界の猛威をモノともせず、頑張るし、国土に生き続ける。なぜなら、「人間は彼を殺すものより尊い」のだ。
 自然と人の尊厳のバランスのとれた賢人のことばをみてとった日本人は、パスカルに馴染んだのだと考えてみるのも悪くない。
類似の断章で「悲惨」の自覚について語るパスカル

樹は自己の悲惨を知らない。故に、自己の悲惨を知るのは悲惨なことであるが、
自分は悲惨であるということを知るのは偉大なことである

 パスカルの言やよし。だけど「偉大だ」と判定しているのは誰だろうか。人間自身が偉大だと言うのはちょっとおかしいかもしれない。この「偉大さ」は日本精神のあずかり知らぬ価値判断であろう。

 しかしながら、自然災害や人災にやられても人間にはそれ以上の尊厳がある。それは自分が弱い葦と知っており、自然界が途方も無い脅威であることを知っているからだ。という歩の進め方については、多くのヒトは同意するのではないだろうか。

 自己の弱点や虚しさを知っていることで、自然の破壊力を笑い飛ばしたり、あるいは畏怖を感じつつ、謙虚に受け止めたりする。何よりも記憶にとどめ語り継ぐことで、犠牲者を弔い、その生きたあかしを偲ぶことが、人間の優位性なのだろう。
 「知っている」ことの優位性を再認識してみるべきだろう。

パンセ (中公文庫)

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