ケインズの確率哲学

 経済学者として知られるケインズの最初に、人びとを瞠目せしめた著作は『確率論』であった。確率の頻度説に対する鋭利な攻撃と確率の論理説を打ち出した代表作なのだ。

依田高典の簡にして要を得た分類によれば、確率の解釈には4説ある。

①古典的確率論(ベルヌーイなど)確率はすべての可能なケース数に対して、
ある事象に属するケース数の比率である。
②統計的頻度論(ミ―ゼスなど)確率は無限繰り返し試行における相対度数の極限値である。
③論理的確率論(ケインズなど)一度限りの事象における確率とは、命題と命題の間の論理関係である。
④主観的確率論(ラムジーなど)確率はベイズの定理などを用いて計測可能な確信の度合いである。

①をそのまま擁護している論者はほとんどいないであろう。

今日では②から④の三説が生き残っている。②が大半の数学者の依拠する解釈だ。
①を教科書で習った身としては「曰く不可解」なのではあるけれど。理想的なサイコロの支配するイデアの議論が古典的確率論なのであろう。それを現実世界に応用しようとすると途端にハナシが複雑になるようだ。極端なハナシ、歪んだサイコロの確率は、頻度主義では分析すらできないおそれがある。

④は別の機会にまわして、ここでは③論理的確率論についてケインズの説を書く。
 ケインズによれば、確率は推論を行うときに生じる未知さを表現する。無知とはことなる「未知」さを確率として定式化できるというものらしい。「推論の重み」が確率なのである。だが、それは世界の隠された未経験の事象に関しては非力である。その事象に既知の「推論の重み」を適用することはできないというロック的経験論の規制がかかるのである。

 ギリースの言葉を借りて、もう少し別な側面から説明しよう。
 いくら観察を重ねても「カラスは黒い」ことは論理的に導けない。これはイギリス経験論の原則であり、それをどう紐解くかが、ヒューム以降の立場の差となる。
 これに対して観察があれば、「カラスは黒い」を「部分的な必然的帰結」できるとするのがケインズの論理説の出発点だ。この「部分的な必然的帰結」が「合理的信念の度合い」なのだ。
「部分的な必然的帰結」が確率であるとケインズは主張する。さらにケインズは「合理的信念の度合い」は、人により差があり、必ずしも確率による数量化がいつもできないと論じる。ここに至って、多くの数学者や科学哲学者はケインズと袂を分かつのである。
 「合理的信念の度合い」が属人的で数値化できない部分があるとしたのは、ブルームベリーのエリート主義と投資能力の優越性が反映しているとヤッカム学者がいるのである。


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確率の哲学理論 (ポスト・ケインジアン叢書)

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ケインズ全集 第8巻「確率論」

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