確率の定義は誰でも知っているが、その意味はどうだろうか?
サイコロの面が出る割合としか言えない人も多いだろう。けれども、いかさま師のサイコロはどうであろうか?そのサイコロが仕掛けがあるかどうかを見分けるのも確率だったりする。
起こってもいない確率を評価しなければならない場合もある。パンデミックが先進国で起こる確率はどうだろう?
確率論は用途を拡大してきているのだが、それに伴う理解は十分ではない。
確率の意味は現代の専門家らは以下の両面性があることが合意済みとされている。
a) 認識論的確率 信念の度合いや論理説を含む主観的確率。
b) 客観的確率 自然科学で起きるようなランダム事象に当てはまる確率。偶然的(stochastic)確率ともいう。
有名なイアン・ハッキングの発言だ。
「確率はヤヌスの顔をしている。一方で統計的であり、偶然のプロセスに関わる。他方で知識に関わり、命題に対する信念の度合いを理にかなった仕方で評価するためにある」
このように二分化されているが、もともとは幾つもの学説がある。それらは20世紀はじめに生み出され、欧米では熱心に議論されてきた。日本では専門家も少なく、欧米の状況の紹介がほそぼそとあるだけのようだ(一ノ瀬氏ら)
この方面の権威であるドナルド・ギリースから引用をする(人名は主要な提唱者である)
(1)論理説 ケインズ
確率とは合理的な信念の度合いである。仮説に対して、また予測において、
同じ確証をもつすべての合理的な人間は同じ度合いでそれを信じることを前提とする(2)主観説 デ・フィネッティ
確率とはある特定の個人がもつ信念の度合いである。ここでは同じ確証をもつすべての
人間が同じ度合いで信念をもつとは前提されない。考え方の違いが許容される。(3)頻度説 ミーゼス
同じ事柄の長い系列において、それが起こる一定の有限な頻度を確率とする。(4)傾向説 カール・ポパー
確率とは繰り返される一連の条件に内在する傾向である。例えば、ある結果の生じる確率がpであるとは、ある条件が何度も繰り返される場合にその結果の生じる頻度がpに近づくという性質を、その条件自体がもつと考える。
上記のケインズはあの経済学者だ。処女作が『確率論』という一種哲学的考察だったのだ。夭折の天才のラムジーがここでも鋭い批判をものしている。いずれにせよ、20世紀初頭のケインズの論理説とともに確率の哲学的探求がスタートしたのは示唆的だ。
二番目の主観説はリスク理論やベイジアン統計に影響しているので、無視するわけにもいかない。デ・フィネッティは確率論やリスク理論に必ず登場するベイズ主義の巨頭だ。その主張は過激で「すべての確率は主観的個人的なもの」とする。
この四学説で他を統合しつつ生き残っているといえるのが、2)と3)であり、それぞれ上記のa)とb)に相当する。
このような解釈学とは別に、確率の数学的体系についてはコルモゴロフが確立している。
公理論的な定式化だ。しかし、それは理論の論理構成の仕方だ。大元締めのコルゴロモフも晩年に確率の解釈を試みたが断念したと仄聞する。数学界のモーツァルトと呼ばれたコルモゴロフでも諦めたのだ。
では、そもそも何が問題なのであろう。高等学校で倣ったようなラプラス流では何がいけないのか?
古典的な立場 義務教育で教えられるLaplaceの「同等な確からしさ」「同等に可能な事象」は「偏ったサイコロの問題を扱うことができるのか」というフォン・ミーゼスのようなありふれた状況で、たちまち行き詰ってしまう。ラプラスの古典的な確率の世界は「ある固定的条件下での等しく起こりうる結果の有限集合」を相手にすると宣言した。ベルトランのパラドックスみたいなことが説明できない。なので、今では義務教育の現場で使われるくらいだ。おとぎの国の数学なのだ。
完全に対称的な物体でない以上、サイコロは歪みや重心のズレがある。工業製品として十分であってもそれが「同等な確からしさ」を保証していない。つまり、確率計算の前提が成り立っていないわけだ。
同様な事情が古典期ローマにあったという。不定形ないびつなサイコロがローマ時代には使われていたのだ。アストラガスという名の家畜の小骨をそのままのダイスだ。
イアン・ハッキングは確率論が古代に生まれなかった理由の一つにしている。
さて、1) の「認識論的確率」とはなにか。
これは社会的に大いに活躍している。その相手にする世界は「起こりうる結果を含む可能世界、あるいは世界の状態の集合」であり、確率はある事が起こると信じる度合いだ。
なんというか、われわれは行動を選択する時、ある事が起きることを信じる度合いに応じて選んでいる。天気の変化の度合い、株価の行方の度合い、病気の症状の度合い、他人の取りうる態度の度合いといった様々なあり得る可能性を評価しているといえる。
これらについて定量化するうえで「確率」的な表現とコルモゴロフ公理系は整合的だ。
主観説はリスク理論で活躍中なのだが、それは自然科学とは別物の確率なのだ。其の場合、確率はあくまで「行動選択」の手段なので乱用すれば非合理的判断の手段になりかねない。
サベージの公理はそれに対処するための思考規則のようなものだ。興味がある向きは「リスク理論」を参照願う。
【参考文献】
一癖ある科学哲学者ハッキングの古典的力作
- 作者: イアン・ハッキング,広田すみれ,森元良太
- 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
- 発売日: 2013/12/21
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欧米人は基礎を練り固めてから応用を考える。それが強みだ。リスクの計量化についても疎かにすることはない。この本でもサベージの主観説に軸足をおいて、「起こり得る世界」の考察を開始する。でないと明日の技術をどう扱えばいいのか?実験可能な「原発事故」はないのだ。
そうかと言って予防原則で危険因子のある技術(自動運転車等)や制度(デリバティブ等)をすべて不採用にすると「経済発展」は停滞してしまうだろう。
- 作者: T.ベッドフォード,R.クック
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トドハンターの分厚い歴史もいいが、こちらのほうがコンパクトでよくできている。残念ながら入手しずらい。
- 作者: フローレンス・N・デイヴィッド,安藤洋美
- 出版社/メーカー: 海鳴社
- 発売日: 1975
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復刊が待たれる本格的な専門書
- 作者: ドナルドギリース,Donald Gillies,中山智香子
- 出版社/メーカー: 日本経済評論社
- 発売日: 2004/11
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ラプラスの名著。「ラプラスの魔物」の創案者が確率の権威でもあったというのは面白い。
- 作者: ラプラス,内井惣七
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ケインズの処女作も翻訳がある。彼の全集のなかで一番厚い。自分も所持しているが読了はいつになるやら。
- 作者: 佐藤?三,ジョン・メイナード・ケインズ
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2010/05/28
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