フロレンス・ナイティンゲール伝抄

 看護婦の始祖であり現代の偉人伝に欠かせない人物、フロレンス・ナイティンゲールの伝記は多くの人が知るところだ。
 伝記作家として一流のリットン・ストレイチーの著書と統計学史から幾つか興味ある事実を拾い上げてみよう。彼の伝記には淳風美談だけではないひねりがあるのが特徴だ。
 ビクトリア朝の裕福な名家に生まれ、良家の子女として良縁によって安定した家庭を期待されて育った。だが、彼女の願望は常人には理解しがたいものだった。修道女のように生き、病人を看護する。とくに悲惨な境遇にある傷病人を看護することだ。おそらくはカソリック系の贖罪意識から真の慈善により神に近づこうしたのかもしれない。
ストレイチーのユーモアをまじえた記述によれば、名門の母親の嘆きはこうだ。

 長年の夢を実現して家を巣立ってゆくフロレンスを見て、母親は「私たちはアヒルよ」と嘆いた。
「それが野生の白鳥をかえしてしまったの」
それは間違っていた。彼女は鷲であった。

 彼女の活躍の舞台はクリミア半島であり、それは前半生での事件であった。そこでは絶え間ない闘争があった。融通が利かない役人や兵隊を動物扱いする将軍、現実を直視しない無能な貴族や権威にこだわるだけの僧侶、それに硬直した陸軍組織。これらが彼女の闘争の相手であった。彼女はそうした敵手には恐るべき猛禽類であったという!
 この時代に一女性がイギリスの軍隊組織に闘争を挑み勝利するというのは、とんでもないことに思える。彼女には友人で陸軍大臣シドニー・ハバート、彼女自身の財力と新聞紙が後押しした世論があった。


彼女の声は高く透き通っているが、誰もが従わざる威厳があったという。
ここに貴重な彼女の本物の肉声がある。

 実は彼女の恐るべき才覚には「数学のセンス」があった。ナイチンゲールはお偉方を説得するには数字しかないことをよく知っていた。軍のファイルから大量のデータを集めて、王立調査委員会に驚くべきグラフを提出した。
 兵の戦場での死因は、戦闘ではなく病気の感染によるものであることをパイチャートで示したのだ。彼女は統計学の実践のパイオニアの一人となる。
パイチャートはナイティンゲールの発明ということになる。

ストレイチーは彼女の内面を理解しようとするよりは実像を描くことに専心している。ナイチンゲールの晩年は名誉に包まれたものだが、他方で神秘的な信仰とその伝導にも引き寄せられたようだ。

 この統計学史はわかりやすくてタメになること受け合いです。さすがの彼女も堅物ピアソンにすげなく拒絶されたエピソードがさらりと出てきます。

統計学を拓いた異才たち(日経ビジネス人文庫)

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