奥州藤原氏のミイラ

 平泉が世界遺産登録に決まりそうであり、東北地方に片思いの小生としてまっこと喜ばしい。
 前にも「ザビエルのミイラ」で触れたけれど奥州藤原氏の清衡、基衡、秀衡、泰衡の遺体のミイラ化の由来の謎が気になるのです。
 泰衡は頭だけ、清衡、基衡、秀衡は全身ミイラです。泰衡は頼朝との闘争にあっけなく敗北しての死だったので、頭だけでも伝わるのは奇としなければならないでしょう。清衡奥州藤原氏の開祖。前九年の役で悲痛の死を遂げた藤原経清安倍氏の娘の子弟です。この有為転変の人生は『炎立つ』を読んでいただくとしましょう。

 いまのところ定説はないようであります。起源は不詳であります。前触れも前例もなく、唐突に清衡のミイラ化は何らかの手法を真似て実施されたらしいのです。
 アイヌ酋長のミイラ化習俗の影響だとい説もあったようですが、説得性に欠けるとされるようです。
四代の血筋もどうやら学術調査でアイヌというよりは、日本人的と診断されていました。
 出羽三山湯殿山の入定ミイラとも独立した存在であるとされます。もちろん時期的に近いし地理的にも近いので、何らかの関係はあってもいいでしょうけれど。
 研究者は出羽の入定ミイラは中国大陸の影響下で形成されているが、奥州藤原氏のは「アイソレート(=孤立)」したものだとしています(安藤更生『現存する日本のミイラ』)


 といった状況認識を踏まえたうえで、唐木順三の示唆を紹介しておくのは意味があることでしょう。
 唐木順三は日本思想史家であり、歴史学者でもミイラの専門家でもない。よって、それはただの空想にすぎないのではある。でも芸術的思想的直観というのもあるかもしれないので、覚え書きとしておきます。

 中尊寺金堂の須弥壇は、あらかじめ棺を収めるようにあつらえていた。そこに清衡以下一族の長は安置されるように定めてあったに相違ないであろう。空間的に火葬では大きすぎ、土葬では浄土を想う場所に相応しくない。そうなると、ミイラ化により遺体が風化せぬような処置が施されるべきよう計らいがあったのだとしか思えません。
 そこで唐木順三が注目しているのは、化粧長押に施された白檀珍香の細工である。インド・エジプトに由来するこの技法が物語るのは、やはりエジプトにミイラ製作技法を求めるべきではないかと文尾に唐木は書き記している。
 朝鮮半島や中国大陸に残存しない遙か西方の遺体処理術をいきなり東北にもってくるのは、飛躍の飛躍であるけれど、面白い可能性である。

 なにしろ寛治元年(1087年)から文治5年(1189年)まで百年にわたって栄華をきわめたのであります。金売り吉次伝説が各地あるように藤原氏の商人は大活躍していたでしょう。それ以外の土地は源平の戦乱で安定した商業などできるわけがない。想像をめぐらすと、それ以前の安倍氏清原氏は大陸と交易していたかもしれないのです。
 ここにひとつの傍証があります。戦国時代の偽書にこう書き記されているそうです。

保元二年(1157年) 一一月一一日の日付を持ち、近江保内商人等に、
三千匹の馬についての諸国往返自由の特権を保証した「後白河天皇宣旨に「東日下、南熊野之道、西鎮西、北佐土嶋」とある

 この「東日下」は「東北北部・北海道南部」を指すことは確実だと網野善彦は指摘しています。たとえば東北北部の十三湊は津軽半島にあり、広く交易をして繁栄した港でありました。
 もっとも十三湊を支配した安東氏は奥州藤原氏の後裔だとかで時代が下りますが、時代はやや違いますが清衡の時代に日本海交易が盛んであったとしても不思議ではないのか?
親日的だった渤海は滅んでいますが、遊牧民族系の契丹満洲を支配していました。遊牧民族はキャラバン的商人をシルクロードを通して自由に行き来させていたことでしょう。*1
 つまり、異国の文物をひろく収集していたとしても不思議ではない。京都を経由しないで平泉に直接流入した異国文化があってもいいでしょう。

 想像的な仮説として奥州藤原氏のミイラのエジプト起源説をブログの片隅に書き残しておこうと思います。

出羽三山のミイラ信仰についての考究。

日本ミイラの研究

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炎立つ 壱 北の埋み火 (講談社文庫)

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金色の棺―藤原三代の謎を開く (ちくま文庫)

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網野氏は国号「日本」が東北から始まった可能性を論じています。

日本論の視座―列島の社会と国家

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*1:時代は15世紀になるがアフリカを含む世界地図が朝鮮でつくられている