原子力復権という隘路

原子力発電が見直されてきている。

「「原子力ルネサンス」の機運が高まる欧米や、原子力発電所の新規導入を目指す新興国での需要拡大に伴い、世界規模で原子炉メーカーによる受注競争が激化している。」電気新聞(2010年7月12日)

日本はインフラ輸出という国家主導戦略の一貫で、新興国に売り込みをはからんとしている。別に日本だけがそうした行為に走っているわけではない。韓国もフランスもアメリカもロシアもそうだ。インフラを売り込むことで経済の立て直しをはかろうとしている。それ自体では、これはまずい方策ではない。

だが、原子力発電は低炭素排出のエネルギーモデルだとしても、中長期的に汚染物質を安全かつ経済的に管理してゆけるかという課題には応えていない。
 どの先進国ですらそうだ。発電の過程で生成される放射性廃棄物と原子炉の寿命による解体と保管のコストは消費者にツケがまわされる予定だ。それを災害の多い国土に後生大事に保存していかなくてはならない。炉心溶融のような重大事故ですら、チェルノブイリが最後でもはや起きないという保証はどこにもない。

 短期的な金銭や電力エネルギーという産出物を先回しでもらい、ツケは子孫にツケを後払いとしているようにしか見えない。
 本当に人々は世界中にそうした厄介者の鬼子を撒き散らすことをヨシとしているのだろうか? あくせくと近視眼的な利潤と景気回復をめざす先進国と温暖化防止対策で原子力
拡大させようとする新興国。これらの政府の利害は一致している。しかし、問題の先送りまでも一致させていいのだろうか。

最新の状況は例えば、日経サイエンス2008年10月号「核燃料サイクルを再考する」

 後世へのツケの経済原理が確立していない。科学技術が解決するだろうと安易な期待はしないほうがよい。というより、複雑性の科学がここでものを申してくれないだろうか?
エラーを確実に起こし、事故を回避できない原子力システムの内在的本質的な性質と、原子力発電システムに対するIn/Outの限界性を二の句がないほど明らかにできないのであろうか?
 かの故高木仁三郎さんならどう反問するであろう。我らは答えられるほど進歩しているだろうか?

市民科学者として生きる (岩波新書)

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 彼の意志は誰が継いでいるのだろう。温暖化対策と原発推進はイージーにリンクされてはならないはずだ。

我らは時代の流れに任せて理性を麻痺してしまってはいまいか。
矛盾を承知でいえば、個人的には原子力反対ではない。3割以上の電力が原子力依存の我が国で反対のための反対は、ダダをこねるに等しい。かといって無闇なインフラ拡大を見過ごしてもよいとも思えない。害毒を輸出する。禍根のタネをばらまいているかもしれないのだから。

【問いかけ】
原子力に限らず大規模科学技術は何らかの原理的制約が伴うのではないだろうか。好奇心と探究心にまかせて開発や研究が進むゲノムや脳サイエンス、あるいは素粒子科学。その副産物はどうツナガリ、どうヒトに影響するか、誰にも予測できないのだ。
決して不可知論ではない。憂えるのは、結果を知ったときにはもう遅いということが十分ありえるのだ。
何しろ、科学技術は普通の工場の生産管理スケジュール問題も解けないのだ。化学物質と食物、自然環境とゲノム創薬、脳サイエンスと試験(社会選別)制度などの相互作用はどれほどの大きなマイナスインパクトを誘発するか分からない。

 無数の因子の相互作用がいちどきやってくる、これは避けなければならない。環境ホルモンがその典型であろう。複数の無害な化学物質が複合汚染をもたらし、性分離に障害をもたらす。

環境生殖学入門―毒か薬か 環境ホルモン

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 私は原子力発電に全面的反対するものでは、決してない。条件をクリアすれば原子力をドンドン利用するがいい。でも、長期にわたる放射性廃棄物の管理や地震などの天災やテロ攻撃のリスクを十全に消し去ってから普及を開始したほうがいいと思うのだ。


放射性廃棄物は何千年という期間、外部から隔離して保管されねばならない。
そのような長期間安定した国家や文明はどこにあっただろう?
ローマ帝国ですら1000年ともたなかった。帝国の歴史の半分以上は動乱のなかで臣民は呻吟した。アテナイ民主制はもっと短命だった。
 目下のところ、千年の長期安定政体などありはしない。国家寿命がそんな有様で、人びとは理性的判断をしていると言えるのだろうか?
いうなれば人類は放射性廃棄物の蔓延・拡散する未来環境を選択しているのだ。

代替医療の難しさ

サイモン・シンの「代替医療のトリック」(新潮社)は二つの点で瞠目されるべき書籍である。
第一に、一流科学ジャーナリストが「EBM」(ファクトデータに基づく医療)をもとに有力な代替医療を一刀両断したこと。
第二に、それにもかかわらず代替医療の評価はなかなか困難であることを露呈していること。

代替医療のトリック

代替医療のトリック

鍼灸についてのみ意見を開陳しよう。
新薬や新治療のためにプラセボ効果の影響を除去するために二重盲検でケーススタディを繰り返す、そうした地道な努力の積み重ねが、医療現場でなされている。
これを意地悪く言い換えると、理解不明の治療効果はプラセボの名のもとに封印されていることでもある。
何ゆえプラセボが治癒をもたらすことがあるかを解明できていないのだ。
それ故に、プラセボ効果の影響からの差分の有意性を統計的検証する手続きが、EBMの核心だと、私はそう理解している。

EBMの道具箱 第2版 (EBMライブラリー)

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偽薬効果

偽薬効果

サイモン・シン鍼灸法のEBM報告書にもっともな疑念を呈している。欧米やWHOの報告書は「効果あり」を結論づけているからだ。その効果に貢献しているが中国のケースだ。彼らは中国の事例が信用ならないというのだ。ニクソン訪中の無痛分娩デモが欺瞞だったことも不信感の理由だ。うんうん、そーだけど。

ここで、インドのパンジャーブ出身であるサイモン・シンの検証の姿勢に対する一個の
仮説が浮かび上がる。
インドと中国の政治的反目がバイアスとなっている。すごく根拠が薄い仮説だけどなぜか個人的にはありえると思う。
近年の両国のライバル意識は火花を散らすものがある。
国境紛争しかり、チベット問題しかり(ダライ・ラマ仮政府はインドにある)、さらには水利権をめぐるつばぜり合いもある。
両国とも経済発展、技術発展がいちじるしく、軍備増強に余念が無い。21世紀のアジアの覇権もこれら両国の火種になるだろう。
サイモン・シン君もこうしたバイアスから自由になれているか、どうか。興味が尽きない。
もちろん本人は否定するだろうけれど。

さて、鍼灸法に関する個人的結論はこうだ。
少しでも効果の有意性が検出され、有害でないことが立証されているという前提で、
鍼灸はこれに該当する。
本人が「確かに効いた」と信じられるのなら、それは有効な医療なのだ。
その処方により、本人の生活の質が改善するからである。
万人に効く医療行為ではないかもしれない。医学は所詮、物理学のような客観「科学」と同じ学問にはなりえないのだ。

これについては杉博士の啓蒙書でも同様な結論を出されている。「現代医学に残された7つの謎」で彼が述べているのは、すごく矛盾した言い回し&表現だが、共感できる。たとえプラセボ効果が過半であっても鍼灸法は有効だと。

それは、科学的というよりは、プラグマティックな結論だ。他の代替医療はどうだか知らない。ここんところ話題のホメオパシーにこの議論が適用できるものではないのは、急いで付け加えておこう。
しかし、なんでもかんでも科学ですべて割り切れるものはないのが、リアルワールドであり、リアルライフなのだ。

塚のつく知人

大塚さん、戸塚さん、小塚さん、平塚さん、西塚さん、石塚さん、貝塚さん、手塚さん、塚田さん、塚山さん、塚本さん、塚さんといろんな塚ピープルが同じ根源にコネクトしてます。
彼らはみな塚に関わる土地の出なのでしょうか。

姓名学の事典

姓名学の事典

柳田国男翁も塚について論述を残してます。十三塚というものです。
この本くらいでしょうね、研究書は。

キリシタンと十三塚

キリシタンと十三塚

かつて塚はアチラコチラにある身近な存在でした。
古墳は塚と呼ばれることが多いようです。野毛大塚古墳といがいい例でしょうか。
http://www.city.setagaya.tokyo.jp/030/d00006129.html

帝塚山と手塚は関係があると推察しています。
理由は簡単。「てづか」で、読みが同じなんですね。
帝塚山古墳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%A1%9A%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

古代史の舞台を行く (ビジュアル・ブックス 7)

古代史の舞台を行く (ビジュアル・ブックス 7)

マウンドピープルはメリケンにもあります。小山を築くことはかつての偉大な存在の証だったのでしょうね。
この週末は古墳や史跡めぐりはどうでしょか? 全国の塚@ピープルのみなさま!