東京物理学校

 東京物理学校の名は漱石の『坊ちゃん』で早くから知ってはいました。このほど建学の物語を読み、いろいろと思うところがあったので、書き留めます。

 東京物理学校は今日の東京理科大学であります。
 東京物理学校は明治14年に21人の理学士によって建学されました。
 帝大出身の理学士はいずれも20代。大半が士族出身である。
 しかも昼間の勤め先を持ちながらの建学である。
 その時、帝大理学部教授、理学博士第一号の山川健次郎が全面的に協力している。山川自身、会津の白虎隊の生き残りであり、後に帝大総長となりはするが、政治の世界からは一歩離れ、「窮理」の道を帝国に根付かせることにより国を磐石なものとしようとした愛国者であったという。
 山川いわく、

政治をよくしなければならないが、政治をよくするには、社会をよくしなければならない。社会をよくするには社会学の研究が必要である。社会学の研究には生物学ならびにその他の自然科学が盛んにならなくてはならぬと考えて物理学を学ぶことにした

 
 当初は、基礎理学しか教授しなかった。しかも実験を重視していた。「重力学」「聴学=音響論」「電気学」「熱学」「光学」「算術」「幾何」「代数」「質問」が当時の科目だ。厳しい試験を通らなければ卒業させないという姿勢も徹底している。

 ここで強く感じるのは、実利実益から離れた「窮理」というものに、これら21人がただならぬほどの肩入れをしている、その一点にある。営利、名声、権力といったところと程遠いところから、国家を強固なものにするという使命をもって、理学を建学の礎石にしたところが、なんというかサムライ魂としか言いようがない。
 ほぼ同じころに全国で専門学校や大学予備門のような今日の有名大学の創設が勃興しているが、実利を目指すところは共通であったそれらの建学運動とはやや異なるのですな。
 ここでは語り尽くせないけれども、山川健次郎の妹であった山川捨松、後の大山捨松の波乱に富みながら、教育にかけた人生というのも大きな物語であった。

 このような一見迂遠な回路を日本人に埋め込んでおいたオカゲで、技術立国の日本が生まれたのだと、つくづく思うのであります。


参考:

物理学校―近代史のなかの理科学生 (中公新書ラクレ)

物理学校―近代史のなかの理科学生 (中公新書ラクレ)

参考:
 白虎隊の生き残りが帝大総長かつ日本初の理学博士になった。すごい人生だと思う。政治ではなく理学を選んだのも一筋縄ではないぞ、この人。