バーリントン・ベイリーの衣装SF

 ベイリーの最盛期のSFは思弁的な恍惚で大脳新皮質を麻痺させてくれた。

『カエアンの聖衣』ではブロッシムのスーツが所有者の人格を根底から変貌させる。
『禅銃』では異能な古代の銃が低俗なキメラを支配する。
 モノ=商品による自己実現願望が逆転する図式がベイリーの小説世界で成立するのだ。
 カルバン・クラインロンジンがその所有者を飲み込み、その存在を規定するようなものか。あるいはハーレーダビッドソンのバイクが全能感を与えてくれると信じこむようなもんか。
 高級な商品が幻惑するのは自分自身なのだ。他人がその商標に捧げる賞賛を自分へのそれと意図的に取り違え、その取り違えにより自身の価値と存在を誇張する。所詮は道具でしかないのに、道具が全能感と自我の高揚をもたらす。
 あるいは、ブランドとは現代に復活したトーテミズムなのではないだろうか。
 ブランドによるセルフイメージの変革・賦活は所属トーテムによる自己増強だ。精霊による加護を金銭によって確保するというと誤解があるが。

 こうしたことを一瞬でも考えさせてくれた作品だった。先ごろ他界したベイリーの作品は優れた消費社会のアレゴリーを提供してたと思うのだ。

カエアンの聖衣 (ハヤカワ文庫 SF 512)

カエアンの聖衣 (ハヤカワ文庫 SF 512)