知の欺瞞とヴィリリオ

 かつて「サイエンスウォーズ」なる高尚な論争が勃発したことがあった。科学者たちがポストモダン思想の牙城に殴りこみをかけたとでも評すればいいのか。
 おフランスのお高くとまった現代思想英米流の経験主義者が、喧嘩を売った事件だ。
なにはともあれ、ポストモダン思想の大家たちは、いずれもこの世を去り、現代思想はもはや、名前に相違して歴史に埋もれつつある。

 とはいえ、科学的な思考の勝利、経験主義者たちが現代を支配したとばかりは言えない。実のところ、思考の多様性や生産性、現代の問い詰めは大きく後退していると思う。
ポストモダン思想を支援するのではない。とくに理解しているわけでもない。けれども
 考える力の枯渇、ただ単に事実を集めて素直に未来を語る実証的な「フィクション」の横暴さと平板さに辟易しているのが、実情なのだ。事実の集積ばかりに頼りすぎだ!

 飛躍もなければビジョンもない。したり顔で有り体の語りにはウンザリする。
例えばインターネット礼賛だ。そのパワーや革新性、変革をもたらす力動性には誰も異論がない。それに異を唱えるなんて愚の骨頂なのだが、擁護派異論派どちらも同じ穴のムジナ的なお話ししかしてくれない。

 その点、ポストモダン思想の最後の生き残りのポール・ヴィリリオのカタリは騙りがあるかもしれないが、刺激的である。彼も「知の欺瞞」で叩かれた一人ではある。
しかし、平板なお話しだけの英米の情報社会論とは切れ口が違うのだ。
 鮮やかと言って良い。
インターネットが「距離の汚染」を招く、その言い切りぶりだけでも耳目をそばだてるに値すると思うのだ。単純な反対論でも賛美でもないものがその表現に内包されている。

 このご老人に続く論者がつぎつぎに現れて、もっと面白い思想的地平を開かないと精神の闊達は窒息するという予感と悪寒がする。

情報化爆弾

情報化爆弾