政治策略の達人、後白河法皇が取り憑かれた今様を残した『梁塵秘抄』は
不思議な歌謡集であるらし。軍事力で勝る源頼朝も舌を巻いた人物だとか。
代表的な歌
遊びをせんとや
生まけれけむ
戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそゆるがるれ
童心にかえる心情ではなく、遊女の悔いと嘆きであるらしい。
遊女が童の無心な歓声を聞くにつけ、いまのわが身の厭わしさに身悶えするという情景。現代人には分かるようで分からない情感だ。
オヤジがドッジボールで興奮する子どもの声に同調して、年甲斐もなくいっしょに遊びたくなるみたいな意味ではなかったんだですなあ。
そっちのほうがいいんだけど。
桃山晴衣sanは古謡をひたすら追求した方だ。今様についてもその残像を伝えてくれている。
そして、この歌いがある。
遊女の好むもの
雑芸 鼓 小端舟
傘翳して艫取女
男の愛祈る百大夫
法皇は遊女と親しんだ。その暮らしぶりを知り尽くしていたと考えられる。傀儡(くぐつ)についても同様。おそらく傀儡を間諜や情報源として自在に使いこなしていた。
ここにある百大夫信仰が気になる。
どうやら「百大夫を後に傀儡まわしの人形の祖神」としていたと西郷先生は注釈に引く。
これは百大夫社として、西宮神社、北野天満宮に現存するそうだ。
西宮神社とは後代まで傀儡の本拠みたいな社であったのだろう。
また、折口信夫によればほかひ人と傀儡は対創成したようだ。
山人の団体として、遊行神人の生活法をとつた者は、ほかひ人であり、海人の巡遊伶人団は、くゞつと言うたらしいのです。
『翁の発生』より
傀儡は近世までその芸を続けていたようだ。見聞記録によると人形芝居を締めくくるのに山猫のような動物が飛び出して、「泣くものは山猫にかましよ」と叫ぶのだそうだ。なんだか興味深い。
仏は常にいませどもうつつ現ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁にほのかに夢に見えたまふ
極楽浄土を欣求する中世人にすら、仏は容易に現れるものではなかったようだ。
修行三昧の明け方の夢にほのかに佛手が現れ、触れるのを感じたのだろうか。
「あはれなる」がみょうにひっかかる歌いではある。
西郷信綱先生の委曲を尽くす解説には脱帽します。
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