禅の道話:真理は刹那にある

武勇が天下に轟くある武士が禅僧に、
「地獄とは何か極楽とは何か」と詰め寄った。
「この無骨者めが。お前なぞに関わる暇は持たぬわ」
僧は武士の問いを軽くいなす。
体面を傷つけられた武士は激怒し、刀をぬいて大声をあげた。
「無礼モノめ 切り捨ててくれる!」
その刹那!
禅僧は静かに答えた。
「それが地獄じゃ」
怒りに狂った心の虚を突かれて我にかえった武士は、刀を投げ捨て禅僧を拝した。
禅僧はふたたび口を開いた。
「それが極楽じゃ」

 短いながら深く考えさせるこの寸話は、ゴールマンの『EQ こころの知能指数』の4章冒頭にあるものだ。*1
 トマス・アクィナスは魂の救済を求めて膨大な「神学大全」を著した。ひょっとすると「神学大全」を普通の人が読んでも、この武士のようなインパクトは受けないのではなかろうか?
 地獄は我を失う瞋恚の炎にきざし、極楽は我を忘れるほどの畏敬にある。それを体得した武士。殺意で刀をかざし、礼拝により刀を投げ捨てる。その行為があればこそ、あるいは我が身を殺意にさらしてまで武士の問いに応えた禅師であればこそ、強烈な悟りに近いものを与えたのではないかと思えるのだ。
 さらに言えば、この寸話を読んだところで所詮ただホホウと感心するだけであろう。数日も経てば忘れてしまうに違いない。
 自らの進退をかけた体験でなければ真の悟りにはつながらない。
 ところで、トマス・アクィナスは、ある啓示に打たれて「神学大全」の完成を投げ打ち、ひたすら瞑想にふけり示寂したそうだ。

 ゴールマンのこの本は米国でのベストセラー(日本でも)であった。さて、外国人に極楽も地獄も刹那にあるという身体を張った教えはどう響いたのであろうか。

EQ こころの知能指数 (講談社+α文庫)

EQ こころの知能指数 (講談社+α文庫)

*1:ちょっと改作した