没落はこんなもんじゃない

 日本が没落してるなんていうけど、本当の没落はこんなもんじゃないだろう。それを主張しちゃうのだ。


 国家の没落を追体験したいというのであれば、史書をそれも極めつけの名著をひもとくのが一番だ。
 もっとも適した書物は、私見ではツキジデスの『戦史』だ。
ペロポネソス戦役を扱った歴史書である。
 紀元前5世紀にアテナイ連合とスパルタを筆頭とする反アテナイ同盟との死闘があった。アテナイは卓越した指導者ペリクレスのもと、最盛期にあった。だが、幾つかのつまずきの石がアテナイを転落に向かわせる。
 長期化する戦役。マハンの地政学を先取りして海軍に力点を置いたアテナイ連合は確実に反アテナイ同盟を追い詰めてゆく..はずであった。
 陸戦ではとうていスパルタに敵わないが、多島海を制するもの食料物資を制すである。海軍の優位性をアテナイは存分に生かす戦略であった。
 しかし、籠城戦の長期化は激甚な疫病を引き起こす。さらにペリクレスが病に倒れる。やがて有能な指導者を失ったアテナイ人は扇動政治家に右往左往させられる。
 定見なしの戦略・国家運営・外交・戦闘が都市国家ピカイチであるはずの国力を蝕む。(なんか今の日本に似ているのが嫌だな

 アルキビアデスのような人気目当ての政治家、クレオンの扇動などなどにより人心は揺れ動く。ギリシア本土の戦いを二の次にして、あの無謀なるシチリア遠征を行う。その敗北は大きな痛手となる。
ツキジデスの筆致はあくまで冷静である。*1
 その冷静さはかえって、アテナイの度重なる戦略ミスへの痛恨を、激しい自責を念を感じさせる。史家の描写を通じて2000年後の異国の我らも国家が余儀なくなすすべもなく破滅にジリジリとにじり寄るのを追体験する。
 国が傾いてゆく、なのに手をこまねいてなにもできない焦燥感!
まさに迫真の追体験だ。圧巻である。*2
 
 残念ながら史家は『戦史』を書き終えることはなかった。決定的ダメージであるアイゴスポタモイ海戦と屈辱的敗戦まで、この愛国の史家の精神はその悲痛に耐え得ることがなかったのである。

 アテナイの没落に比べれば、日本はまだまだ楽勝だ。本当の没落はこんなもんじゃないだろうと思う。その痛恨鎮魂をこの史書追体験してもらえれば、何かしら得るものがあるだろう。

戦史〈上〉 (岩波文庫)

戦史〈上〉 (岩波文庫)

戦史〈中〉 (岩波文庫)

戦史〈中〉 (岩波文庫)

戦史 下 (岩波文庫 青 406-3)

戦史 下 (岩波文庫 青 406-3)

 久保正影の名訳で読めるのはウレシイ。

*1:ちなみにツキジデスはアテナイの将軍であった。それも敗軍の将だ。クラウゼヴィッツみたいだ

*2:それに随所での名演説も見どころ。