知的生産の最前線

Web2.0以降、知的生産の最前線はネットに移行してしまった。
ネットでの集合知がどれほどダイナミックで機敏でボリュームがあるかは今更言うことでもない。
 ここで、集合知とは、商品の口コミサイトであり、価格比較であり、WIKIでありブログであり、twwiterである。いろいろな立場の人々が情報と知識を持ち寄ることで、てばやく情報を集積し補いあう。
 さらには平均化し均質化していき、大多数の納得する意見にまとめる。その際にはテキスト・マイニングなど意見分析エンジンが適用できる。
 まさに新しいメディア、消費者製作メディアCGMである。誰でもそのプランナー、プロデューサーとなり製作に関与できる。それをうまいこととりまとめれば、みんなのイマのココロが現出する。*1

 集合知がしばしば専門家の知にまさるのはスロウィッキーの「「みんなの意見」は案外正しい 」に印象的な例がある。牛の品評会かなにかで重さを投票した話だ。

ゴールトンは、グループの平均値が、まったく的外れな数値になると予想していた。非常に優秀な人が少し、凡庸な人がもう少し、それに多数の愚民の判断がまざってしまうと、結論は愚かなものになると考えたからだ。だが、それは間違いだった。予測の平均値は一一九七ポンドだったが、実際は一一九八ポンドだったのである。血統の善し悪しに関係なく、「みんなの意見」はほぼ正しかった。

 もう少々さかのぼるとトフラーの本がある。
 「パワーシフト」だ。トフラーによれば専門家はそのパワーの源である知識を占有できなくなる。専門家は一般消費者に権威を委譲するようになろうと予想した。そして、市民にパワーが移行する時代が21世紀だとした。
 一部は当たっているようだ。トフラーの別の主張である「プロシューマー」の登場は見事、満塁ホームランだったのに対して、こちらはセーフティバントみたいなところがある。

 知識のタイプはいまやネット依存のものとそうでないものに別れた。これはどんな大言壮語かというと(大言壮語かどうかを見極めて欲しいのだけど)、こうだ。

1)ネット依存知識、あるいは知識2.0
 リアルタイム、つまり現在発生しつつある事象についての集団的な反応。みんなが知りたがるみんなの反応についての知識だ。
 お互いの意見と情報の持ち寄りによるポトラッチ状態を総称してこう呼ぶ。

2)旧態依然的知識、あるいは知識1.0
 専門家の頭の中、もしくは専門書のなかに埋れている枯れた知識。
 メッタに日が当たらないが、稀少価値はあるだろう

 知識2.0はニュースとその反応だ。「現在」の君臨ともいえる。
 新しいことばなり、イメージなりが、そこで生成される新しいリアルだ。
浮動する重心、中心を求める集合体だ。

 でも、反面では、それは生きられる現実とは別物だ。異なる現実、異なる社会があり、それが現実社会を扇動&先導しているかのようだ。
ジャロン・ラニアーは集合知に限界があり、例えば法律制定をwikiに任せたら恐ろしいことになるとしている。トロール(ネットの匿名の罵り屋)がどのような弊害を招くかもラニアーは指摘する。
 ネット上の大衆の知の相乗平均がここにある。それをフルに使いこなせれば総和平均を享受できるわけだ。

 今後に置いては、これらの使い分けが肝要だ。

 マーケティングはその最たる例だ。口コミを可視化できるようにネット上の仕掛け(直販&EC、ブログ、SNS、動画サイト、グルーポンなど)によって直接間接に売り込みに関与し、制御することが可能になった。
 なぜ、売れ、何ゆえ、売れなくなるかをローコストで観測できるようなった。予算は期間内に使い切るためにあるのではなく、結果をみて即座に切り替えるための費用になる。
 知識2.0は現在起きつつある事象についてのディテールを担う。マーケティングはまさに知識2.0以外のなにものでもない。



「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

パワーシフト―21世紀へと変容する知識と富と暴力〈上〉 (中公文庫)

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人間はガジェットではない (ハヤカワ新書juice)

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*1:これを予見的に描き出しているのは、アーサー・C・クラークの「地球幼年期」だと思う。