カントの認識能力の牢獄と異星の知性体

 ドイツ古典哲学の大物カントが人間の認識能力の大仮説を提唱した。18世紀のことだ。彼が問うのは、科学がなぜ可能なのか、ニュートン力学がどうして普遍的真理らしく見えるかという難問だ。
 答えは「先験的能力によって」だ。人間誰でも備わっている認識機能が誰でも自然界に適用できるフレームを持っているがゆえに、可能だということと理解してもらえればいい。
 そうなると幾何学代数学すら、その先験的能力によって見せかけの「普遍性」をもつことになる。
 こういった議論の射程は今にいたるまで広範囲であり、20世紀の科学哲学者ライヘンバッハするらも否定出来ない業績であるとした。
 であるとすると、知的異星人とのコミュニケーションはどうなるのか。
「お互い理解できない」とカントなら解答するだろう。カントは銀河生成説のひとつを構想しただけに、こうした問いかけにも真面目に回答してくれたであろう。
知性の意味合いが根底から異なるために、話し合いなど出来無い。
そもそも、お互いの数学体系すら一致するかどうか保証されないからだ。

 第一、異星人に知性があるとどうやって判断できるのだろうか?できない相談だとわたしは考える。SETIの遠距離通信で相手の信号を解析したところで、何を伝えるつもりなのか、まったく分からない。「周期性が鍵になる」と多数の科学者は言う。であるが、ランダム性は実は定義しようもないというのに?

 となるとすぐそばの多種多様な生物、つまり、地球上の生物種に(人間には想像もつかないような種類の)知性があったとしても人間様にはとんと分からんということも十分成り立つのだ。
 大脳がデカイとされるイルカさんは本当はバカで、人類が滅ぼしたドートーやマンモスはトンデモナく賢かったなんてこともありうる。
幸いにもお互いの知性を理解できないから、すれ違ったのかもしれないけれど。
世の中、そんなモンなのだ。